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宮崎兄弟資料館

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はじめて孫文と出会った宮崎滔天は、その姿をみて落胆したという。七三に髪をなでつけいかにも紳士然とした洋装で現れた孫文が自分が期待していた東洋豪傑のイメージとはおおきく異なっていたからだ。しかし、話題が中国革命におよぶや一転して舌鋒するどく論じるその熱い語り口に感銘をうけた滔天は、「この人こそ中国革命をなしとげる現代の豪傑である」と確信したという。
その後、滔天は孫文と行動を共にし、その革命運動を陰に日向に支援することになる。なかでも、それまでばらばらに活動していた中国の革命家たちを東京で孫文にひきあわせ、革命結社の大同団結をはかったことは、明治維新における薩長同盟にはたした坂本龍馬の役割にも匹敵する歴史的な貢献といえよう。 またその半生記である自著『三十三年の夢』は、孫文に続く多くの中国人革命家に大きな影響を与えたといわれている。滔天が1917年に湖南省で講演をおこなった際、出席していた当時まだ20代だった毛沢東も感激のあまり滔天に面会を申込んだという。 当時、孫文を支援した日本人は少なくなかったが、この宮崎滔天ほど私心なく物心両面からの援助をおしまなかった日本人もいないだろう。

宮崎滔天
宮崎滔天

 

宮崎滔天と孫文
宮崎滔天と孫文

宮崎兄弟資料館公式サイト
孫文を支援した大陸浪人・宮崎滔天とその兄弟の生家、宮崎兄弟資料館の公式サイトです。
【滔天と孫文の筆談風景】 奥座敷(おくざしき)では、二人の男が対座しています。一人は中国の革命家で、のちに中華民国という国を建てる孫文。もう一人は宮崎家の末子寅蔵(滔天)です。広州で最初の武装蜂起の計画に失敗した孫文は、明治28(1895)年、日本に亡命してきました。そして再起を図るため、ハワイからアメリカ本土に向かい革命の同志を求めましたが、あまり成果はありませんでした。 (以上、サイト内の文章から引用)

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