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石原莞爾将軍墓所

 

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満州国建国の英雄、また日本陸軍はじまって以来の秀才とたたえられた元関東軍参謀・石原莞爾。しかし、その晩年は波瀾万丈の前半生に負けず劣らず数奇なものだった。

東條英機との政争に破れ、終戦を待たずに現役を退いた石原莞爾は昭和21年、郷里の山形県鶴岡市から北へ40キロほど離れた遊佐町の山中に同志とともに移住した。戦後の日本社会のモデルとなる農工一体の自給自足共同体をつくろうという計画だった。

広大な満蒙の大地に理想国家を建設しようとした石原にしてはいささかスケールの小さい計画のようにも思えるが本人はいたって大真面目だったようだ。その一方、そうしたひたむきさの裏には自らが立ち上げた満州国が時とともに当初の理想を失ってしまったことへの反省の思いもかいまみえる。

ここはその跡地にある石原莞爾の墓所で、現在道路が走っているすぐ近くの山中にある(画面中央に見える道路脇から入る坂道を上ったところ)。墓所の周りには「永久平和」の文字と並んで「都市解体」「農工一体」「簡素生活」という石原莞爾が戦後、目指した新日本建設の三原則を記した石碑が建っている。またすぐ近くには「私はただ仏さまの予言と日蓮聖人の霊を信じているのです」という石原の言葉を刻んだ石碑もある。石原莞爾は日蓮宗の熱心な信者であった。

なおここは新墓所であり、旧墓所は道路を挟んだ反対側にあった。バイパス道路の建設にともない、法律上の問題から現在の場所に移設されたのだという。

石原莞爾

独自の世界最終戦論にもとづき満州事変を構想。
「満州国」建国の推進者。

石原莞爾
石原莞爾

軍人。満州事変の画策者。1889年、山形県鶴岡出身。

1918年、陸軍大学を優秀な成績で卒業、日本陸軍はじまって以来の奇才とうたわれた。

陸大卒業後、中国勤務およびドイツ留学を経験。その間、日蓮宗の教義と独特な戦争史観をミックスした特異な世界最終戦論を練り上げたといわれる。

1928年、関東軍参謀として「満州」へ赴任。やがて満州および内蒙古を日本の支配下におく「満蒙領有構想」を発表し、同僚の板垣征四郎とともに満州事変を引き起こした。

ジュネーブで開かれた満州事変を討議する国際連盟会議には、外相松岡洋右の随員として参加したが、そのさい石原はぬけぬけと中国服を着て出席したという。

満州国」建国後は帰国して陸軍参謀本部付となり作戦課長、作戦部長などを歴任。だが東条英機と反目し41年、ついに軍を追われた。その後、立命館大学国防研究所所長などをしていたがまもなく帰郷、晴耕雨読の信仰生活を送った。

戦後、酒田で開かれた東京裁判臨時法廷では裁判の欺瞞性を激しく攻撃し、「自分を戦犯にしろ」と訴えたという。だが結局、戦犯には指定されず、1949年8月、60歳の生涯を終えた。

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