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報恩の碑 潘佩珠と浅羽佐喜太郎

ファン・ボイ・チャウ

10代の頃から反仏独立運動に参加。1904年、阮朝皇族のクォン・デ(Cường Để、彊柢)を盟主として「維新会」を結成し、武器援助を求めるべく、1905年に大日本帝国へ来日した。亡命中の梁啓超を通じて知り合った犬養毅らから人材育成の必要を説かれたことから、ベトナムの青年を日本に留学させる東遊運動(ドンズー運動)を興した。医師・浅羽佐喜太郎に支援されて活動した。 しかし、このような動きに危機感を抱いたフランスは日仏協約で日本政府に働き掛けて、1909年に国外退去にさせる。その後中国に渡り、1912年に広東でベトナム光復会(ベトナム語版)を結成した。武力によるベトナムの解放を目指したが、大きな成果は得られなかった。
浅羽の訃報を知ったファンは、1917年(大正6年)5月に、偽名を使って大日本帝国に密入国した。翌1918年(大正7年)に3度目の訪日をし、東浅羽村(後の浅羽町)の村長・村民による金銭的援助もあって、浅羽佐喜太郎への「報恩の記念碑」を常林寺(現在の静岡県袋井市)に建立した。碑は高さ2.7m、幅0.87mの大掛かりな石碑で、以下の文言が漢文で刻まれた。下記を現代仮名遣いに置き換えて紹介する

我らは国難のため扶桑(日本)に亡命した。公は我らの志を憐れんで無償で援助して下さった。思うに古今に類なき義侠のお方である。ああ今や公はいない。蒼茫たる天を仰ぎ海を見つめて、我らの気持ちを、どの様に、誰に、訴えたらいいのか。此処にその情を石に刻む。
豪空タリ古今、義ハ中外ヲ蓋ウ。公ハ施スコト天ノ如ク、我ハ受クルコト海ノ如シ。我ガ志イマダ成ラズ、公ハ我ヲ待タズ。悠々タル哉公ノ心ハ、ソレ億万年。
1925年、上海でフランスの官憲によって逮捕され、河内(ハノイ)で終身刑を宣告される。しかし、ベトナム国内の世論の反発を受けて恩赦。順化(フエ)に軟禁されたまま没した。

潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)と浅羽佐喜太郎の交流

浅羽佐喜太郎

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